これがWikipedia厨というものか

「CLick for Anti War 最新メモ」11月22日のコメント欄より。
晒しておこう。

↑ふーん 2007/12/04 01:34
じゃ、君はケー100をどこでどうやって見たの?
源氏物語与謝野晶子から瀬戸内寂抄まで訳して出版され続けてるけど、ケー100見てた世代なんて、限られてるんじゃない?
(太字は引用者による 寂「抄」は原文ママ)

http://d.hatena.ne.jp/claw/20071122#c1196699669

現代語訳

日本語
源氏物語』の原文は、専門的な教育なしには、現代人にはかなり難しいもので、瀬戸内寂聴訳が、近年、ベストセラーになったように、むしろ現代語訳で親しんでいる人々の方が多いと言える。数ある日本の古典文学の中でも、恐らくその豊かな内容の故に、最も現代語訳が試みられており、また訳者に作家が多いのも特徴である。

与謝野晶子の「新訳 源氏物語」(1912-13年、全4巻)は、大胆な意訳と省略で知られている。また歌人らしく、各帖の冒頭に、自身の和歌を加えている。谷崎潤一郎は、生涯に−−−
(太字は引用者による)

http://ja.wikipedia.org/wiki/源氏物語

Wikipediaから情報を引くのは全然構わないが、それを自分の知識であるかのごとく語ろうとするのなら、きちんと本人の中で知識化されてから語った方がカッコイイと思うんだが。

例えば料理の名前を知っていることとその料理の味を知っていることとでは大きな違いがあるのだが、この手のインスタントな知識をひけらかす人物は、名前を知っていれば味を知った気分になれると思っているのかもしれない。いや、それ以前に、自分はこんなに知識がある、と一時優越感に浸れればそれでいいのだろう。その場だけ優位に立った気分になれば満足なのだから、わざわざ名前を覚える必要もない。コピペとトリミングさえできればいい。

だが、そのような安易な手段で手に入れた優越感や満足感などは時を待たずに薄れ、あるいは底の浅さを見抜かれる。薄っぺらい知識モドキは、どうでもいい情報として脳の片隅に機械的に記憶され、思い出されることもなく一生そのまま放置。本人は全く成長しない。そんなオチが見えてくる。

情報は自分の中で咀嚼して知識化する必要があり、また知識を実生活に活かすためにはそれを知恵化する必要がある。わかっちゃいるが、情報が氾濫する世の中で、それらを取捨選択して知識化していくのは面倒なので、ついつい情報をそのまま右から左に移動させるだけで事を済ませてしまうことは自分にも多々あったりする。以て他山の石とすべしってところ。