メモ

http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20051102/mng_____sya_____005.shtml
父は合祀に慎重だった 故筑波宮司の長男証言


戦後長く靖国神社の最高責任者である宮司を務めた故筑波藤麿氏が、東条英機元首相ら「A級戦犯」の合祀(ごうし)について「戦争の犠牲者の合祀が終了してからあらためて考えたい」と語り、慎重な姿勢を示していたことが一日、分かった。長男の元早稲田大教授常治(ひさはる)さん(75)が証言した。


常治さんによると、筑波氏はBC級戦犯が初めて合祀された一九五九年ごろ、「BC級の人は(国の方針に従った)犠牲者なのだから、すぐに合祀しなければいけない。それに対し、A級の人は責任者だ。責任者と犠牲者をすぐ一緒にお祭りしては、犠牲者が納得できないのではないか」と話したという。

東京新聞本紙の方には解説が載ってたので。

【解説】後任の宮司は合祀に前向き 「内意」離れた靖国


A級戦犯」の名簿を旧厚生省(現厚生労働省)から送られながら、靖国神社が十二年余、合祀に踏み切らなかった理由について、これまでは国会に同神社の「国家護持法案」が提出されていたためと説明されてきた。故筑波宮司の長男、常治氏の新証言は、法案だけではなくそもそも筑波氏自身が、A級戦犯の合祀を望んでいなかったことを意味している。
筑波氏は自らが平和を愛すると同時に、昭和天皇の「内意」(ご意向)を重んじる人物だった。その昭和天皇は、A級戦犯の一部に強い不快感を持っていた。直接の発言こそないが、「内意」はA級戦犯の合祀に反対だったといわれる。
終生、合祀を認めなかった筑波氏が、この「内意」を意識していたことは間違いないだろう。
一方で、後任の故松平永芳宮司は、同じ福井出身の故平泉澄・元東京帝大教授の皇国史観に強く影響されていたといわれる。天皇制の護持を重視し、時の天皇が誤ったら「おいさめしてでも」正しく導く−−−という思想だ。こうした考えは、終戦時に皇居に押し入って玉音放送の録音盤を奪取しようとした反乱軍の兵士にも強い影響を与えたといわれる。「内意」は間違っているのだから、正しくお祭りすることで天皇を「おいさめする」−−−。そうした倒錯した考えが、合祀を進めた松平氏の背景にあった可能性がある。
宮司の交代を機に、靖国神社の性格は大きく変わっていった。先の大戦への反省を忘れたかのような今の靖国は、筑波氏の理想や、昭和天皇の「内意」から遠ざかってしまったのではないか。

まあ、明らかに間違っている場合は「おいさめ」してほしいものだが、この場合はそうでもないだろ。