中国の旅(朝日文庫)

いやー探した探した。クローゼットの奥の段ボールの中の文庫本の一番下にありましたとさ。とりあえず該当個所(百人斬りについての記載)を抜粋。
まずは234ページ

「これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが」と姜さんはいって、二人の日本兵がやった次のような「殺人競争」[注4]を紹介した。
「M」と「N」の二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約一○キロの間に、一○○人の中国人を先に殺した方に賞を出そう……。
 二人はゲームを開始した。結果は「M」が八九人、「N」が七八人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から紫金山までの約一五キロの間に、もう一度一○○人を殺せ、と。結果は「M」が一○六人、「N」が一○五人だった。こんどは二人とも目標に達したが、上官は言った−−「どちらが先に一○○人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城までの八キロで、こんどは一五○人が目標だ」
この区間は城壁に近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が高いと、姜さんはみている。

次に263-265ページ

[注4]234ページ 『東京日日新聞』の昭和一二年一二月一三日付紙面に、この件に関する次のような記事が出ている。

 [紫金山麓にて一二日浅海、鈴木両特派員発]南京入りまで"百人斬り競争"といふ珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士M、N両少尉は、十日の紫金山攻略戦のどざくさに百六対百五というレコードを作って十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
 N「おいおれは百五だが貴様は?」M「おれは百六だ!」……両少尉は"アハハハ"結局いつまでにいづれが先に百人斬つたかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ*1百五十人斬がはじまった。十一日昼中山稜を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中のM少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語ってのち、「知らぬうちに両方で百人を超えてゐたのは愉快ぢや。俺の関孫六が刃こぼれしたのは、一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや。戦い済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。十一日の午前三時、遊軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しは、俺もあぶり出されて弾雨の中を『えいまゝよ』と刀をかついで棒立ちになってゐたが、一つもあたらずさ。これもこの孫六のおかげだ」と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。
 ここにいたるまでの経緯については、同紙の同年一一月三○日付朝刊に第一報、一二月六日付の紙面に第二報が出ているので、これは第三報に当たる。また、月刊誌『丸』の一九七一年一一月号には、この第三報を送稿した鈴木次郎記者が、両少尉から取材したときの状況を「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」として報告している。さらに月刊誌『中国』(徳間書店)の一九七一年十二月号では、N少尉が故郷の小学校をたずねてこのときのことを語った自慢話が、直接聞いた志々目彰氏(中央労済組織推進部)によって紹介されている。それによると、N少尉は次のように語っている。−−「実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない。占領した滴の塹壕にむかって『ニーライライ』と呼びかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろ出てきてこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る。百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆どだ」

 この二少尉は戦後、国民党蒋介石政権によって南京で裁判にかけられ、死刑が決定、一九四八年一月二八日午後一時、南京郊外で処刑された。『中央日報』民国三七年一月二九日はこれを報じて「十一點廿分、押赴雨花台刑場、一二點正執行死刑、観衆稱快」としている。
 もと陸軍将校の機関誌『偕行』には、一九七○年七月号から一九七一年一月号までの七回にわたって、N被告の遺言が連載されている。
[追記]−−またこの二少尉のエピソードについて弁護する側から取材した記録に鈴木明著『南京大虐殺まぼろし』(文芸春秋)があり、それを応援する本としてイザヤ=ペンダサンこと山本七平著『日本教について』『私の中の日本軍』(同)がある。それらをさらに批判する本に洞富雄著『南京大虐殺』(現代史出版会)とか鵜野晋太郎「日本刀怨恨譜」(本多勝一篇『ペンの陰謀』=潮出版社=に収録)などがあり、ペンダサンと本多勝一の論争は拙著『殺す側の論理』(朝日文庫)に全文収録されている。
[16刷からの追記]この百人斬り事件については、本書の姉妹編ともいうべき『南京への道』(朝日文庫)でよりくわしく紹介したが、すでに明らかなように、捕虜を裁判もなしに据えもの斬りにすることなど当時の将校には「ありふれた現象」(鵜野晋太郎氏)にすぎなかった。日本刀を持って中国に行った将校が、据えもの斬りを一度もしなかった例はむしろ稀であろう。たまたま派手に新聞記事になったことから死刑になった点に関してだけは、両少尉の不幸であった。したがって長年残るであろう文庫版では実名を伏せて頭文字だけとし、本書でもそれに準じた。

以上でした。「日本刀一振りで百人」と本多氏が言っているという箇所はありませんでした。一応念のため「南京への道」と「殺す側の論理」についても確認してみましたが、同じくありませんでした。まあ、記憶違いってこともあるので。


今日はここまで。

追記(2004/12/18)

引用した「中国の旅(朝日文庫)」は17刷です。

*1:引用者注、くり返しの記号